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気まぐれ日記::我が青春のバカ回顧録
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我が青春のバカ回顧録
遥か遥か昔…私が、漫画界の門を叩いたのは、まだ昭和の時代、後期の頃です。

足立区は北千住、駅から徒歩30分近くの、四畳半一間の風呂なし共同トイレの驚異的ボロアパートにて前年から一人暮らしを始めたものの、自立生活のために友人の母親が経営する美容院でやらせてもらっていたアルバイトは、寝坊による遅刻と無断欠勤が度重なり遂にクビになり、私は早急に職探しをしなければなりませんでした。
当時は「日刊アルバイトニュース」に「フロムA」と言う二大職業情報誌が定番でして、たしか「アルバイトニュース」誌の最後の方のページの募集欄に、『漫画家アシスタント募集』の要項があったのです。

私は少年誌でもかねてから作品を存じていたK先生が、青年漫画のジャンルではそれから人気が上昇する、とある料理漫画の連載開始で、そのために専属アシスタントを募っていたのです。
漫画家のアシスタントと言えば当然「内弟子」…の概念を持った、最後の世代の先生だったと言えましょうか。
何も知らないその時の私は、とにかく生活費を稼がねばならぬと焦りつつも、まったく興味のない仕事はもう沢山だな…と軽い気持ちで、漫画アシスタントの仕事に少なからず進歩的な思いを馳せてしまいました。

あれからもう四半世紀以上もの時が過ぎて思い起こせば、どうやら私は、そこから人生を踏み外して(?)しまったようです。
1984年の夏のことであります。

アパートの隣の駄菓子屋に設置された公衆電話から思い切ってダイヤルしてみて、受話器に出たK先生ご本人に詳細を尋ねたところ、当然ながらイラスト審査があるとの旨で、履歴書と共に美大受験失敗の実力で描いた素人の稚拙な絵を郵送。それが幸か不幸かK先生のお眼鏡に適い、後日面接に呼ばれ、その翌月から正式にアシスタントとなり、私は漫画界に身を投じるに至ったのであります。

それなりに応募数もあった中から私が選出されたのは、何も下手な私の絵が突出していた筈もなく、カラーで描いたイラストが私だけで目立ったのと、上手くはなくとも先生好みで線が細かったから、そして履歴書の空欄にしたためてしまった『体力には自信があります』の一文が効いたとも、後日聞かされました。既に“出来上がった絵”を描くクセのあるプロ跣の人員は、そもそも求められなかったそうなのです。

それは記録的に厳しい残暑から徐々に秋の匂いへと移り行く9月初旬のことと、今でも記憶は鮮明です。
仕事場兼住居の、高島平の新築マンションの一室へと向かい、面接時から二回目の訪問が初出勤で、着替えも持たずの軽装一着のまま、まさかそれから丸一週間もの間、漫画原稿制作の目的のために軟禁状態にされるとは、思いもよりませんでした。
右も左もわからぬまま、K先生ほか先輩アシスタント2~3名のタコ部屋内に放り込まれ、食事の支度の手伝いに始まり、初めて接する「プロの漫画原稿」の、消しゴムかけや簡単なベタ塗りを、必死になって取り組んだのを覚えています。

食事こそ人並みに摂らせてはもらえるものの、睡眠時間は滅茶苦茶でシャワーも使わせてもらえず、男所帯は日毎臭気を増す一方。「コイツらには風呂に入るって風習がないのか!?」と、呆れた記憶があります。

他にも臨時雇用のベテランアシスタント職人が出入りしたりと多数の人員が携わり、私にとっては嵐のような数日が過ぎ、ようやく描き上げられた原稿を持って編集者が去った後、数日ぶりにシャワーを借りて身を清めることができました。ところが私はまさかこんな長逗留になるとは思ってもいなかったので、体を拭くバスタオルも当然持って来てはいませんでした。越して来たてのマンションとは言えど先生もそんな日用品すら準備していないのですから、漫画家なんて何と杜撰なものかと思ったものです。

シャワーを浴びてやっとサッパリできたものの、持参のハンドタオルでは体は拭けずに困っていると、「これでも使え」と先輩アシスタントから投げて寄越されたのは、仕事中彼が首に巻きつけ、また今も彼自身の湯上がりに使用された、原形はスポーツタオルであったと思われる、蔓延したバイ菌が肉眼でも見えるかの地獄のようなボロ雑巾でした。
「漫画界は恐ろしや…恐ろしや…!ナンマンダブ…ナンマンダブ……」そう呟きつつ、私は息を止めながら、先輩から拝借した臭い雑巾で体の水分を何とか拭き取りました。

決して輝かしくはない私の漫画アシスタント生活の幕開けで、月給は9万円。
そう悪くはない月給とは言えど、睡眠時間も満足に与えられず連日過酷な生活を強いられ、私と同時期にアシスタント入りをした同僚が計算してみたところ、「時給150円」との答えが弾き出されたのを覚えています。

その前クビになった美容院でのバイト料が時給500円で、その当時の感覚でも安過ぎた額です。
ところが時給150円との計算上の答えではあっても、その反面一旦タコ部屋に閉じ込められたら、食費は丸々かかりませんし、自室に帰れなければその分光熱費もかからず、“シャバ”の空気が吸えるのは月にせいぜい3~4日。棲家のボロアパートの家賃はたったの1万1千円でしたから、仕事から解放されて数日間仮釈放の身となり、街に繰り出せば充分に贅沢な懐事情で遊べました。

吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」が当時の一大ヒット曲で、仕事部屋で流すラジオからは連日『オラこんな村いやだぁ~♪』としつこく流れていましたっけ。


ところが、当初は楚々と新人アシスタントとして君臨していたものの、若き日の私は次第にメキメキと頭角を現し正体を露見させてしまいました。

慣れてくるや大幅な遅刻は当たり前,先生から注意されれば敵意剥き出しで不貞腐れる,漫画アシスタントとしては当然の背景描きは逃げて覚えようとしない,仕事部屋のちょうど向かいの建物が何かの女子寮と判明するや、仕事そっちのけでチョッカイを出してベランダに物を投げ込んだりと悪戯に熱中する,〆切間際の緊張感張り詰めた鬼気迫るかの状況どこ吹く風で、“体力には自信がある”筈の私一人構わず本棚の陰で高イビキ,暇なら暇で深夜に火薬を詰めたモデルガンをぶっ放すわ…等々と、前代未聞の悪行三昧、馬鹿丸出し全開で、私は最低最悪アシスタントとしての地位を不動のものとしました。アシスタントとして以前に、人として失格だったとも言えましょう。
仕舞いには先生は心労が祟り、胃に穴が空き緊急入院…と、相変わらずの素行不良が功を奏して、たった半年後には、またしても私は見事クビの栄誉を賜りました。

当時は自室に電話もなく、面接時の連絡と同様に、入院療養中のK先生から一通の“クビ通達ハガキ”を頂戴したのが、翌年の春のこと。
私の後から入って来たチーフアシスタントの影響で、不規則な時間帯の仕事ゆえ北千住から高島平まで、どうしてもオートバイで通いたくなり、その為に免許を取ろうと足繁く教習所に通っている最中のことでありました。
『君の様なアウトロー的性質の者は、これ以上雇うことはできない』との文面を覚えています。

「ふざけやがってあのハゲ!ところで…アウトローって、何のこった!?」と年長の同僚アシスタント相手に怒り散らした私は、やはり途方もない大馬鹿者と申せましょう。どう考えても、ふざけていたのは私以外の何者でもありません。

意地で中型二輪の免許は取得したものの、失業でバイクを買う必要も金銭的余裕も一気になくなりました。
しかしそれならそれで、何とかなるさ、の暢気極まりない向こう見ずな年代でした。


この時知り合った、雑巾タオルと同僚を含む先輩アシスタント衆三人組は、その後二十歳代の私の人生に深く関わり、結果的には一人去り二人と疎遠になり、三人目とも歯車が狂い…と哀しくも次々と交友破綻を迎えることになるのですが、何故か今でも時々、彼等は私の脳裏に甦って来てしまいます。あれは今思い出しても滅多に巡り会えやしない強烈なキャラ達でした。
尤も、私も人様のことをとやかく批評はできないかもしれませんが…。

お金はなくとも、夢と希望と毛根だけは豊富だった、私の青春時代の一幕でした。


あれから時は流れ、夢はひとつ消え二つ捨て、毛は抜け落ちて金は貯まらず、あれよあれよと四半世紀…、今では“出版業界の恥垢”としてのポジションながらも、こうして漫画界にしがみついて、今も原稿描きに従事し〆切に追われる籠城生活。
新鮮な情報もないので、今回はふと昔話の断片を綴ってみました。

夢を熱く語り、将来に希望を托し、共に過ごしたものの今はとうに交遊なきアシスタント仲間三人衆は、漫画家として大成した者は一人もなし。
K先生に関しては、その後波乱万丈,紆余曲折の決してよからぬ風の噂を時折耳にしておりましたが、ここ最近たまたま見掛けた漫画誌で、たしか既に還暦の年齢に達せられながら、未だ現役で執筆されている作品を垣間見させて頂いた次第です。
反発して半年で去ったまま、それから四半世紀もの時を経て、結局私は漫画家として、K先生の足元にも及ばぬ身分です。


あの時、もしあのアルバイトニュース誌を見てなかったら、今頃…。
もし、呆気なくイラスト審査に落とされていたら…。
人生に“もしも”はありませんが、最近そんなことも考えてしまいます。

でもやっぱり、どこに行っても何をやっても、私のような戯け者はこの通りお馬鹿な人生だったでしょうが…。



北千住室内.jpg

これは私の北千住アパート内、貴重な当時の室内写真です。
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